呉明憲コンサルタントの中国ビジネス日記

商社マンOBが中国をふり返る ~本音の中国を語ろうその1

 本日からしばらく元商社勤務の方が回顧録として書きとめていた文章をアップしてきます。この方の経歴ですが、1970年代終わりに商社に入社し、1990年代半ばより山東省、1990年代終わりから四川省、2000年からは広東省で勤務され、2000年代半ばに商社を定年退職。その後約5年間独立行政法人に勤務され、その後は大学教授としてもご活躍されました。現在すでに70歳を超えていますので、今となっては昔話となってしまっているようなお話もあります。昔と今とどう違うのか、昔と今も変わらない、いろいろと感じられるところがあろうかと思います。いろんな思いで読んでいただければと思います。一回目は少し長めの文章になります。

 

 

はじめに:

 私の名前は山田一郎。42歳である。現在、大阪に在る中堅の化学品専門商社の副部長をしている。入社後10年間は国内商売を担当、鉄鋼メーカー、石化会社の担当者たちと付き合い、麻雀、飲食、ゴルフなど其れ成りのサラリーマン生活を過ごして来た。しかし、10年後、社内の大幅な組織変更が実施され、私はいきなり貿易を担当する事となった。地域は欧米である。10年も国内商売を担当して、いきなり貿易とは、「それはないだろう!」と上司に文句を言ってやりたかったが、冷静に考えると欧米相手では自分の好きな英語が使用でき、入社以前から欧米の生活など社会に憧れていたのも事実。従って、文句は封印した。そして、貿易では順風満帆の日々はあるにはあったが、逆風の風が強かったが慣れるとそれなりの対処方法も身に付けて来た。

 

 ところが最近上司より「来年4月より君中国広州の合弁会社に行ってくれるか?会社の総経理、すなわち社長として」と言われて、頭が真っ白になった。中国とは?10年前と同様上司に文句を言いたかったが、今や昇竜の勢い有る中国、欧米の市場はそれなりに成熟しており、販売も勢いがない。中国は成長率は落ちたとはいえ、6-7%で推移している。規模が巨大で6.5%の成長率なら今後とてつもない国家になるのでは?と期待と不安がまぜまぜになったが、期待を込めてこの辞令を承諾した。それで、中国は全くの未知の国。新聞、テレビ、雑誌など溢れんばかりに日々中国のニュースは聞こえて来るが、実際の中国はいかがか?は不明である。これは多くの日本人もその様ではないか?それではどのようにして中国の実際の姿を知るのか?と考え、悩んでいた時、会社の相談役から突然呼び出しを受け恐る恐る、相談役の部屋を訪問した。

 

相談役「君、来年春から中国らしいな。中国の事、どれだけ知っている?」

私「正直からっきし分かりません。色々文献を漁っていますが、皆、言論統制にあっている様に同じ様な事を言っており、内容には疑問を持っています。真実いかがなっているか分からず不安です」と申し上げた。

相談役「先日、学生時代の友人T君と久しぶりに飲んで君の話したんだ。T君は総合商社、商社の化学品部門に長年勤務、現役時代業界では大いに名が売れた人なんだが、この人の部下が中国勤務が長く、ビジネス、生活、社会など中国の断面を良く知っているらしい。T君の部下は君同様欧米に勤務希望であったがそれは叶えられず、いきなり中国となった。何だか君と境遇が似ている様なので、君の話をしたんだ。君、その人に興味有るなら早速コンタクト取って訪問したらどうだ?」

とアドバイスを受けた。私は相談役の配慮に謝意を表し、アドバイスとおり、その人を訪問、面会する事にした。その人は大阪市内のマンションに住む。私の会社よりそんなに遠くはない。あらかじめ電話でお話したら、本町の居酒屋で飲みながら話をしましょう、となった。その方の名をMさんとしよう。Mさんの話は単に中国に留まらず、韓国、香港、台湾など東南アジアなどの国情にも話が及び欧米一本やりの私には彼の話す内容は全て新鮮に映った。Mさんから聞いた内容を忘れない様に予め断ってICレコーダーに録音した。この書はMさんと私の会話全てが入っている。これから中国とか海外に飛び出そうとする人には参考となると思い、会話形式で書にまとめたのである。前置きが長くなった。

 

  • 中国と付き合う。

私「そもそもMさんと中国との馴れ初めとは何でしょうか?」

 

M「私は実は中国生まれなのです。1945年11月に中国東北地方の瀋陽、昔は奉天と呼ばれたところで生まれました。なぜ瀋陽か?ですが、母方の祖父が陸軍退役して陸軍より依頼されて瀋陽で兵器製造工場を経営していたのでして社員は中国人が3,000名、日本人が数十名いたと、祖父から以前聞いた覚え有ります。祖父は週3回は朝礼を行い、社員を相手に中国語で色々指示を出したり、注意をしたりしていたそうです。この兵器工場の売り先は当然日本陸軍で、陸軍は戦争に使用。工場で働く中国人は、生活の為とは言え、嫌な思いしたでしょうね。日本が敗戦を迎え、当時の国民党が瀋陽に進駐、祖父など会社の日本人幹部は逮捕されました。そして、裁判で祖父及び少数の日本人幹部は死刑の判決を受けたのです。」

 

私「死刑!ですか?」

M「そう。死刑ですな。祖父は監獄に他の日本人幹部と共に入りました。毎朝、監獄の見張り人が来ては“今天、没有死”と言っては立ち去ったそうです。つまり、“今日は執行ないよ”と言う事を伝え、祖父はそれを聞いては“今日一日命が有る”と安堵しつつ、明日はいかがなるか不安で仕方ない悶々とした日々を過ごしたと語っていますね」

 

私「その後おじい様、他の日本人はどうなったのですか?」

M「かなり時間が経って、どの位の時間かは忘れたと言っていますが数か月くらいでしょうね、或る日、監視人が来て急に「釈放だ!出ろ!」と言われ他の日本人も同様釈放されたそうです。狐につままれた感がして祖父は監視に尋ねたそうです。監視は“知らない”の一言、で祖父は刑務所の幹部にそれとなく尋ねたら、中国人労働者から大量の助命嘆願書が提出されたとの事です」

 

私「それ、どういう事ですか?」

M「祖父は何故かは其の時思い至らなかったそうですが、嘆願書を見せて貰ったら、“社長及び日本人幹部は中国人労働者を親切に扱った。殴る、蹴る、侮蔑的言葉を吐くのが当然の日本人ではあるが、祖父などはこれをしなかった。日本人幹部にも厳禁していたうんぬん“が記載されていたそうです。」

 

私「当時の日本人はひどかったでしょうね」

M「当時は中国人、朝鮮人に対する差別は当たり前の世の中。僕らの子供の時でも中国人は△△と言われて、韓国人は□□!とバカにされていたのでね。しかし終戦を境に立場が逆転して中国、朝鮮では多くの日本人が酷い目にあったそうですな。」

 

私「おじい様、Mさんの家族はどうなりましたか?」

M「住んでいた瀋陽は多くの日本人が住み治安は比較的安定していた様ですが、ハルピン、新京、今は長春となっていますが、この都市および周辺の農村にも多くの日本人が住んでいて、これは引き揚げが大変の様でした。母も語っていますが引き揚げの時、女性は断髪、顔、手、足などは黒く塗りつぶし、ソ連、匪賊の襲撃に備え各家庭に出刃包丁が渡されたそうです。ゴロツキが来たら、包丁を使って立ち向かえ!と言う事でしょう。」

 

私「怖かったでしょうね。物凄いストレス!」

M「文化勲章を貰った俳優の森繁久弥も自叙伝で記しているけど、質の悪いソ連兵、当時は◯◯と皆呼んでいたそうですが、◯◯に備え火炎瓶を皆で作ったりしたそうです。また主人が一家を日本刀で殺し自分も自殺する一家心中、悲惨な事件があちこちで起きていたそうです。森繁さんは新京でNHKのアナウンサーをしていたそうです。放送局に9人のソ連兵が入ってきて、自動小銃を森繁さんの背中に向けてロシア語をグチャグチャ話したそうです。振り向いたらヤラレルな、一瞬の事だから振り向こうか、痛くないはずだ、しかし自分がこんな目に遭っている事を誰かに見て欲しいとも思ったそうです。とにかく彼は“アナタに歯向かう意志は絶対ありません”と言葉は通じないものの、ジェスチャー、ムードで必死に示したそうです。結局彼はシベリアにもやられず、無事帰国できた訳なのだが、その帰国の道中は悲惨、地獄の一言に尽きる。」

 

私「具体的にどういう事ですか?」

M「極東にやられたソ連兵は西部から派遣された。要はドイツと戦い、勝利を収めて来ました。ゆえに欲求不満の狼が大量に野に放たれたと言う事。一番被害に遭ったのは婦女子で、彼女らを守ろうとして勇敢に立ち向かった日本人男子は無残にも殺戮されてしまいました。ソ連兵の程度の低さを森繁さんは“貴重品を身に付けていると、強引に取る、ライターを知らなくていじっていたら、急に火が出てびっくりする、残った飯に灯油をかけ、塩をまぶしてうまそうに食っているとか。ソ連兵が家に押し入った場合の撃退方法は電話の音を鳴らす事。よって隣の家と紐で結び合い、ソ連兵が来たら紐を引っ張り隣に合図、隣は直ぐ電話をかける、急に大きな音がして兵隊はびっくりして退散する、と言うわけです。また、日本人は新京から貨物列車に乗り錦州経由で葫蘆島に向かうのだが、無蓋車に乗せられた家族は”列車が揺れると危なくて振り落とされるな?嫌だな“と囲いのある貨物車を羨ましいと思ったところ、引き揚げ時期が夏から秋に向かう頃、珍しく長雨が降ったそうです。そしたら、無蓋車は雨が溜まらず、囲いの有る貨物車は雨が溜まる、しかも隅に設置した簡易トイレが溜まった雨水と一緒になり、臭い、汚いのひどい状況。列車は時々停車する。その時間は不明で急に出る事も有る。皆一斉に外に出て大小便をする、ところがうら若き乙女は恥ずかしいので貨物列車の下に入り、しゃがんでいたら急に列車が動き、哀れ、悲惨な結末となったようです。錦州は日本人町。ここに大量に東北地方から来た日本人避難民が来たものだから、町の成りはたちまちパンク。一般家庭に入れない人達は簡易収容所を作る。そしてアメリカ軍から支給されたDDTをかぶり、まずは簡単なトイレを作る。そしてトイレには男女区別なくしゃがんでお互いの便をチェックするのだそうです」

 

続く


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