呉明憲コンサルタントの中国ビジネス日記

商社マンOBが中国をふり返る ~本音の中国を語ろう(その二)~漸く、商売が出来ました

ちょっとお休みしておりましたが、商社マンOBが中国をふり返る ~本音の中国を語ろう(その二)~漸く、商売が出来ました、をスタートさせます!

 

 一昨日の夜は9時30分頃に終わった。本町の居酒屋はその頃は我々以外に客は無く、遅くなって何かせかされる様に出て来た感じであった。Mさんも私と3時間以上話をしてお疲れの様子であり、私は自分のわがままをMさんに聞いて貰って何か申し訳無い気持ちがした。今日は金曜日、私は天六のマンションに住んでおり、今日は場所を変えて私の住むマンションの近くの、天六商店街の飲み屋でお話を聞くことにした。なお退社する前に一言相談役にも連絡しておいた。「分かった。MさんからT君の方へ昨日連絡があってそのT君から私に今日連絡が来た。“本町の居酒屋で一杯やりながら中国談義をした”とね。君は熱心に聞いていたそうだ。Mさんの話を聞き終わったら、要点でもいいから、私とか幹部に講釈してくれよ。」と言われ、相談役はじめ皆が私の事に気に懸けてくれている、有難い事であるが、少々窮屈な感じもした。あまり、Mさんにご迷惑を与えたくないので、今回と次回、合計3回でこの聞く会を終わりにしたいと、思っている。第一回の話は内容があちこちに飛び焦点が定まらぬようであった。しかし、戦争直後のどさくさ、辛い歴史は学校では習わなかったので色々勉強になった。大陸で頑張ろうとした多くの日本人は夢破れて散々な目に遭って命からがらで帰国したわけである。そう言えば私の祖父は中国東北地方に兵役で駐屯、終戦の時、ソ連に連れて行かれたそうだ。祖父は抑留の模様を話さないまま、あの世に旅立ってしまった。その辺りの情況もMさんに聞いておくべきであった。戦前多くの日本人が中国に渡ったが、結局夢破れて傷心の帰国をしたのである。彼らは国策の犠牲になったのであろう。この戦前の日本の行いが今でも、中国、韓国で歴史認識の相違で度々問題になっている。戦前の歴史に就いて日本の中学、高校では殆ど教えない。私も詳細は知らない。しかし、中国、韓国の若者はよく知っているそうだ。彼らと近代史を話しても日本の中高生は近代史を学んでいないのでついていけないそうである。この辺りの問題は後日お話をお聞きする事にして今回はMさんの中国でのビジネスの事を語って頂こうと思って、例によって一杯やりながらお聴きする事にした。

 

 私「先日は夜遅くまで、お付き合い頂きまして有難うございました。お蔭様で戦後引き揚げ時の日本人の苦難とか中国人の習性などを知る事が出来ました。前回言い忘れしましたが、私の祖父も兵役で中国東北地方に派遣されそのまま終戦を迎え、進駐して来たソ連兵が拘束、シベリアに連行されました。私は祖父からこのシベリアに連行された事、その生活は一切聞かされていませんでした。この事にも大いに興味が有りますが、これは後ほどお聞きする事にして、今回はMさんの中国でのビジネス経験などをお話頂ければと思います。宜しくお願い致します。尚、Mさんのお話は広く、深そうなので、勝手申しますが今回と後一回ご無理をお願いしようと思います。今回は中国とのビジネス、次回は中国の風俗習慣、文化歴史、人々の生活風景などに就いてお聴きしたいと思います。宜しくお願い致します。

 M「分かりました。何でも遠慮無しに聞いてください。」

 

 私「今回はMさんの中国ビジネス経験の件でお聴きしたいと思います。ずばりお尋ねしますが、Mさんの初訪中はいつ頃でした?どの様なきっかけでした?」

 M「確か1979年夏に大連で化学品の交易会があるのでこれに参加する様にと、上司と、言っても、アナタの会社の相談役の昔からの友人たるTさんから言われ、北京経由で大連に行ったのです。これには東京より後輩が一人、中国室から一人参加、わが社は計3名参加しました。当時は大部分の日本人がそうである様に、私は欧米に憧れていました。で、中国出張を上司から言われた時、正直言ってショックを感じました。後日、上司たるTさんからお聞きした処によると、英国の有力化学会社への訪問の話もあった様で、しかしこの会社とは原料の輸入をするビジネスを考えていましたが、具体的に進んでいないため、英国の会社へのインパクトが小さい、と言う事で同時に来ていた大連交易会への誘いが極めて具体的であるので、これに乗ったということです。」

 

 私「仮に、その時英国に行っておられたなら、今のMさんは欧米通になっておられたかも知れませんが、現在の中国の発展振り、欧米の衰退を見ると、Mさんに大連行きを勧められた上司たるTさんの炯眼たるや、凄いものですね。Tさんの読みはずばり当たりましたよ。また、MさんもTさんの勧めに素直に従い訪中されて、それがその後の仕事人生を味のある、密度の高いものにされたと思います。」

 M「そうですね。これも一つの運命ですね。当時私は34歳かな?論語に言う“三十にして立つ”で自分の進路を見つけたと言う事ですが、これは後になって言えるもので、当時は未知の国に行くという不安の方が大きかったですね。Tさんは私の仕事の履歴を良く見ておられ、或る時、部長、Tさん、私と共に、仕入れ先たる化学メーカー訪問した時、そのメーカーのエレベーターの中でTさんが部長に“M君は国内商売しか知らないので海外にもやらせて勉強させようと思っています”と私の前で言って、部長が”それはいい事だ。進めたら良い“と言ったのを覚えていますよ。」

 

続く


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