呉明憲コンサルタントの中国ビジネス日記

商社マンOBが中国をふり返る ~本音の中国を語ろう(その二)~漸く、商売が出来ました その3

前回のはこちら。

商社マンOBが中国をふり返る ~本音の中国を語ろう(その二)~漸く、商売が出来ました その2

 

私「分かりました。チベットの問題は奥が深そうですね。さてその中国通ですね、その人は今どうしているのですか?中国駐在でしょうか?」

M「彼は、数年前にガンで亡くなったのです。齢50過ぎの早すぎる死でした。私は北京駐在の時一緒でしたが、酒、あの中国の強い酒をドンドン飲んで、よく騒いでいましたね。その無理がたたったのでしょう。惜しい人を無くしましたよ。私が上海から北京に引っ越して来て、その晩、彼の北京の社宅で小生に、夕食を御馳走してくれました。上海では荷造り、など全部自分で行い、食事もままならぬまま北京に飛んで来て、彼から“夕食、良かったら我が家でしません?”と誘いが来て、小生有難く受ける事にしたのだが、彼の奥様が作ってくれた本格的な和食が、ことのほか美味しかった。小生は空腹で調子に乗ってご飯を何べんでもおかわりをしたら、とうとう電機ガマのご飯が空っぽになって、彼の小さなお嬢ちゃんが“ご飯、無い”と泣き出す始末で、これには小生、お嬢ちゃん、奥様に平謝りに謝った、と言うことがあったね。懐かしい、しかししんみりとした思い出だよね。また小生の属する化学品部門の後輩ですが、見るからに中国人風の人がいまして、この人が北京滞在中は私も一緒でしたが、北京飯店でトラブルを起こしたのですな。どういう事かと言いますと、日本から来た客人と北京飯店で待ち合わせをしていたのですが、その後輩は寝坊して起きた時は時間を超過していたんだね。顔を洗わず粗末な服で北京飯店に駆けつけ、中に入ろうとしたら、ガードマンに呼び止められ“中国人は帰れ!ここは、外国人専用だ。中国人は立ち入り禁止となっている”と居丈高に言われた。彼は“俺は日本人だ!中国人じゃない!と大声で言ったのだが、彼の話す中国語は全く中国人と同じ、しかもボサボサの髪、無精ひげ、粗末な服、誰が見たって中国人である。ガードマンは”それなら、パスポートを見せろ!と言ったのだが、慌てて来たので持っていない。いかんともし難い状況で次第にやりとりがエスカレートして声は益々大きくなって行った。彼の客人はロビーで待っていて、“入口は妙に騒がしいなあ”と思って、よく見たら、会うべき人が中国人と騒いでいる。“これは直ぐ行って止めなきゃ、大変な事になる!”と感じて、大急ぎで現場に行き、事情を説明して、一件落着した、と言う詰まらん話もあるね。この外、私の3年後輩の中国室の人がいるが、この人は学生時代、“楯の会”に所属していてね。」

 

私「何ですか?その“楯の会”とは?初めて聞く言葉です。楯と言う事は何の楯になるのですか?何やら物騒な感じですね」

M「アナタは若いので知らないでしょう。有名な作家、三島由紀夫が作った憂国青年の集まりで、今から50年前かな、出来たのは。主に東京の学生を中心に結成されて、戦後のアメリカ礼賛などの為、精神面で骨抜きになった日本人を本来の日本人に戻す、と言う運動を始めたのだね。当時の若者、世間の風潮はどちらかと言うと左翼で、この集まりは周囲から危険団体とか、おぼっちゃまの気まぐれ遊びとか、とにかく、真面目に取り上げてくれなかったね。旧ドイツの兵隊の様な格好で、整列して軍隊式の教育をしていたな。三島由紀夫は有名な作家で、その作品はノーベル賞に相当すると言われていたね。しかし彼の思想は、独特で、全体主義に憧れ、その中に一種の美、清澄を感じていたね。で、この集団の一部と三島由紀夫が確か昭和45年の秋に自衛隊の市谷基地に乗り込み、三島は自衛隊員に“君らは今奮起せよ!”と猛烈なアジ演説をして、集まった隊員が全然関心寄せず、それどころか、“ヤメロ、ヤメロ”の大合唱、三島は此れを聞いて、ショックを感じ、自衛隊の当時の隊長の部屋に入り其処で割腹自殺したんだ。彼への介錯は楯の会の会員で、この人も切腹して亡くなった。この事件は社会に物凄い大きな衝撃を与えた。で、小生の後輩は当時確か大学2-3年と思うが、勿論決起の話は知らない。彼の思想は右で中国をやっていて右とは不思議に思うでしょ?当時は中国と言うのは台湾、つまり中華民国であって、中国語習っている人達は右の人が多かったね。」

 

続く


メルマガで最新情報をお届けします
「呉明憲コンサルタントの中国ビジネス日記」の新着記事をメールにてお届けします。今の中国ビジネスの実態をお伝えしております。
メールアドレス *
* 必須項目