
既にニュース等ご承知の方も多いかと思うが、2024年11月に広東省にあるキャノン中山工場は24年の歴史を経て撤退することになった。撤退自体はスクラップビルドの一環として、あるいは景気動向を鑑みて、といった理由で行われるものであることから、それ自体はその会社の経営判断ということになる。
今回のこの撤退で注目を集めたのは長きにわたって経営してきた現地法人が撤退すること、閉鎖することそのものではなく、撤退に際して発生する従業員に対して支給する“破格”の経済補償金である。
SNSで拡散された経済補償金2.5Nの内訳と実態
新聞やニュースで情報を得ることが多いかと思うが、そのネタ元がSNSであることが増えてきている。今回の撤退に関しても、ある18年勤務のベテラン従業員がSNSに投稿した補償の細かな内容が明細が、瞬く間に拡散された。
– 経済補償金:2.5N+1(N=勤続年数)
– 就職支援金:5ヶ月分の給与相当
– 感謝功労金:1万元
-未来応援特別金:5000元
合計約40万元(約880万円)。
(SNSに投降した人がこれだけの金額を得られている、実際には勤続年数等によって支給基準が異なっている)

逆算すると、この人の月給はおおよそ 7550元前後(17万円弱)と推定される。会社の規模にもよりますが、日本で月給17万円の人が18年勤続(この給与水準で18年勤務だとほとんどが中小企業)で退職した場合の退職金は、200〜400万円程度が現実的な水準のようだ。約40万元(約880万円)という経済補償金がいかに破格かがわかる。
「推薦状」まで用意された異例の対応

今回撤退するキヤノン中山工場は、2001年に進出した老舗ともいえる外資企業で、最盛期には世界のキヤノンプリンターの3台に1台がここで生産され、累計出荷台数は1.1億台を超えていた。しかし近年は、国産ブランドの台頭やコスト上昇もあり、市場シェアは年々縮小。2022年には同じく広東省にある珠海工場も閉鎖された。その際にも「N+7」という手厚い補償が話題になったが、今回の中山はそれをさらに上回る内容でといえるだろう。
注目すべきは、補償金の金額だけではない。キヤノンは退職者に対して「推薦状」まで発行し、再就職を後押しした。推薦状書くくらいは全然いいと思うのだが、経済補償金を2.5Nも支給するのに加えて「就職支援金」という名目で、経済補償金とは別枠で5ヶ月分の給与を支給するなど、かなりの大判振る舞いとといえるのではないだろうか。さらには、感謝功労金(1万元)、未来応援特別金(5000元)まで支給されているのである。
経済補償水準の“前例化”がもたらす影響
撤退する企業側としては、今まで貢献してくれた従業員に対してせめてこれくらいはという気持ちで支給しているのであろうし、現地でもこれを美談とする声も聞こえるが、当事者でない我々が恐れるべきは、「日系企業ってこれだけ払ってくれるんだ」という前例として独り歩きしてしまい、後々ほかの企業が撤退あるいは人員整理するときに、従業員側の期待値が過度に引き上げられ、これをベースに交渉することになりかねない点だ。もちろん、いくら従業員が期待したとしても、企業の財務体力は千差万別、どこもかしこも同じようにできるわけではないが、これが当たり前だと勘違いされる空気が醸成されれば、財務余力の乏しい企業にとって大きなプレッシャーとなるのは間違いないだろう。

ここで素朴な疑問がある。なんでこんなに支給するのか。普通に考えれば企業側としては撤退コストが少なく収まるほうがいいに決まっているわけで、労働法や労働契約法というルールもあるので、これらのルールに沿って粛々と進めればよいはずだ。とはいえ、従業員という相手のある話なので、話し合いが行われ、結果としてある程度ルールを上回る形で支給することになるのは理解できる。とはいえ、今回のこれはさすがに支給しすぎなのではと思う人が多いのではないだろうか。現にこの件を話題として何度か知人と雑談をしたが、皆が皆同じように感じている。
撤退業務の“外注”が補償水準に与える影響

日系企業の撤退の多くのケースにおいて弁護士事務所やコンサルティング会社に業務を委託することが多く、弊社でも何度も引き受けたことがある。本件が該当するかどうかはもちろんわからないのだが、ひょっとして撤退業務を受けた弁護士事務所なりコンサルティング会社なりがクライアントの意向よりも自分立ちの労力の軽減を優先して、クライアントに対して補償水準を必要以上に引き上げる方向に誘導するようなケースがあるのではないだろうか。なぜそう思ったかというと、解雇される側の知人がいて、その知人から聞いた話なのだが、経済補償金の話し合いに際して出てきた弁護士にやる気が感じられず、この際吹っ掛けてやろと思って高い球を投げたところ、全て丸飲みだったという話を聞いたことがある。これが企業の意向なのか、弁護士のアドバイスなのかはわからないが、この話を聞いてこういうケースが意外に多いのではないかと感じさせられた。私が携わったケースでは、そもそもここまでの体力がある企業ではなかったこともあるが、ここまで従業員に手厚く補償するケースはなかった。
日系企業が中国撤退で失敗しないための実務視点
従業員への敬意や誠意を適切な形で示すことは、もちろん欠かせない。
一方で、今回の件を「日系企業は必ず手厚く対応してくれる」といった美談として語る報道も散見される。
しかし、制度的な裏付けや企業体力を超えた期待が“空気”として独り歩きすれば、後に続く企業にとっては重荷となりかねない。企業側も支援者側も、感情や印象に流されることなく、制度・コスト・再現性といった観点から冷静に設計し、着実に実行していくこと。それこそが、今後の撤退実務に求められる姿勢ではないかと考える。
